容疑者Xの献身(2008年)

3点。原作読んであまりにもすごいとおもったので勢いで映画もみてみたという流れなので、当然インパクト無いのは当たり前としても、ほかの人の感想にあげられている不満をみると、この話のよいところが映画では薄められているのだなあとおもった。
・石神が無関係の人間を殺しているのに愛とかおかしい
これは歯車の話が説明してるとおもうのだけど、石神は無駄な歯車というものがこの世に存在しているというのを毎朝みるホームレスや自分から感じていて、それで人生に絶望していた。原作では、湯川は使い道を決めるのは自分自身のはずだと言い、これが自分は真相を見抜いているぞというメッセージになって、石神に最後の切り札を使わせることになった。無関係の人間を殺したのではなくて、社会が無視している人間を殺したのである。石神だけが彼の使い道(存在)を見出したのだとも言える。
・石神の号泣
石神の完璧な計算が崩れたからという解釈があるみたいなのだけれど、原作だと靖子と美里が結局不幸になってしまったから、かなしいという解釈しかないとおもう。原作では自首した石神は突然病的ストーカーを演じるようになり、無理して靖子の悪口を言う姿などとてもかなしい。
・湯川の行動
いちばんおかしいのはこれで、歯車の話が映画では石神がホームレスを勝手に歯車にしたなどと責めている。天才的頭脳をそんな事に使うとは残念だなど、才能にしか興味を示していないように聞こえる。これは福山湯川が愛など理解しない設定になっているからで、原作では、石神が靖子と美里のために別の殺人まで犯したのに、それを本人が知らないままなのは耐えられないということで、靖子に真相を話すのである。
映画ではそのシーンがかなり省略されているので、ただ見破った事を言いに行っただけにみえ、そのせいで靖子が観念して自首してしまい、石神の献身を台無しにしたようになっている。それでいてそう仕向けた張本人が泣いているのは意味不明だとおもう。まあ原作は原作で、靖子が自首を選ぶことがいかにも小説のオチ的に無難にまとめさせられた感じではあるのだけれども。
・工藤がダンカン
原作では妻を病気で亡くし、殺人事件をきっかけに靖子を救いにくるナイスミドルなイメージなのだけれど、おそらくこれをダンカンにしたのは靖子が石神を差し置いてナイスミドルに惹かれるようでは凡庸すぎるからじゃないかなあ。胡散臭いダンカンにも負ける石神というのはより残酷だし、そんなダンカンに靖子を譲るところに石神の愛の深さがみたいなね。これはこういう変更もアリかなとおもう。
・石神が堤真一
それよりこっちが違和感で、容姿が悪いことを気にしたことが湯川に犯人であると悟られたきっかけなのに、人気俳優堤真一では無理がある。富樫(仕事も無く凶暴)が石神に(頭が良くていい人)変わっただけという靖子のセリフもおかしくなる。演技力でモテなさそうな感じを出してはいたけれど。。


ここから感想。浮気を自由にさせるのと浮気を絶対に許さないのとでは、どちらが愛が深いのか問題というのを前々から考えていて、この話での石神は靖子と美里との幸せだけをただただ願っている。そのためになら自分が殺人を犯すことも、刑罰を受けることも構わないと考えていた。それもすごいのだけれども、もともと弁当屋で顔をみる、窓から親子の声を聴く、ふたりが世の中に存在するだけで満たされているのだ。
しかしそんな無償の自己犠牲も最終的に靖子には微塵も通じなかった。ここが泣ける。靖子は最初から石神に好意を持たれていることにも気づいてなかったし、そこが明らかになっても、このままでは富樫と同じくまた支配される程度の認識でしかなかった。最後の手紙を読み、富樫の別件殺人まで教えてもらってあの選択だからなあ。あれだけやっても少しも理解されなかった石神の無念はどれほどであっただろう。